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肉屋の仕事、ときどき趣味の日々
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タイトルにもあるように、講談社現代新書から出ている永井均氏の著書「<こども>のための哲学」を本日読み始め、ちょうど第一の問いである「なぜぼくは存在するのか?」についての章を読み終わりました。そこでいくつか考えるところがあったので、それをまとめてみたいと思います。以下、未読の方にはすこぶるわかりにくく、多少堅っ苦しい内容にもなりますが、興味がある方は続きをどうぞ。

 永井氏の経験した批判者との齟齬は、氏自身が言及していることでもあるが、問題の扱い方についての態度の違いだと考えられる。永井氏は自己の内部にある問題を外部(≒過去、世界)にある認識論やヴィトケンシュタインの見解などを自分の中で咀嚼し、それが問題についてどのようなことを示し、どのような点で矛盾するのかということを考えることで解決しようとしている。対して批判者は一見永井氏の抱える問題に対して自分の見解を述べているようにも思えるが、実際はその問題を含めた永井氏という哲学者の立場を、これまでに構築された哲学の地図とも呼べる思想史のどこに据え置くべきかという議論にすり替わってしまっている。つまり、永井氏が求めるような自身の問題として内部で考えた上で行われる批判でなく、終始外部において話は進んでしまい、肝心の内部における批判者自身の考えは示されずに終わってしまっている。
 では、ぼくならばどう考えるか?
 この本の前半部「なぜぼくは存在するのか?」に関する議論は最終的に自己言及を行うたびに自己の特別性を模索するが故に常に付きまとう普遍性から遠ざかるために無限に展開し続けることを発見するに至り、その果てなき探求の先に決して届かざるものが唯一の特別性を持った<ぼく>であるとされた。またその性質から、ヴィトケンシュタインのいうところの言語ゲームによって例示されたように、言葉によって語られた時点で<ぼく>という存在の特別性の意味がその言葉から失われてしまい、普遍化の憂き目にあることも示された。
 この考えを知るに至った際、最初に思い出したのはゲーテルの不完全性定理だった。永井氏の拡大し続ける自己の特別性を巡る問題は、おそらくゲーテルのいうところのシステムの矛盾性・自己証明の無理性に繋がるものだと思う。<ぼく>というものを考えるときに、それを考えるのもまた<ぼく>自身であり、ここにゲーテルのいうところのシステムの自己言及が生じている。故にこの問題は<ぼく>が<ぼく>という存在である限り解決できないものだといえる。少なくとも、<ぼく>を<ぼく>として定義し、それが構成された時点でこの不可能性は出現している。なんだか味気のない理論のようにも思えるが、現時点で永井氏の問題に対して反応するのなら、ぼくはこの考えが一番しっくりくる。
 また、上記の結論からさらに進めるならば、ぼくは問題自体の妥当性に注目する。最近読んだものに、永井氏の著書と同じく、講談社現代新書から出ている入不二基義氏の「時間は実在するか」という本がある。内容はタイトル通り、時間が如何にして実在しえるかということを真面目に論じるわけだが、その議論は最終的に「時間は実在するか」という質問自体が失効するという形で終わることになる。未読の方にはわかりにくいかもしれないが、時間は突き詰めると矛盾と無矛盾がいわばねじれの形で絡み合っており、全体でも局所でも、どのような捉え方をしたにしろ、実在・非実在のどちらか一方に確定することは不可能であるという結論に至る。このことを踏まえるならば、<ぼく>という存在を巡る問題についても、突き詰めていけば時間の実在性と同様に問題自体が失効する可能性が展望できる。この展望も未読の方にはわからないかもしれないが、議論の傾向が似通っているところからぼくが感じるものである。もちろん、実際にやってみたらまったく違う結論に至る、なんてこともあるかもしれない。
 ここでいきなり個人的な話になってしまうが、子供の時によく考えたことを今一度見つめ直したぼくなりの考えを書いて終わろうと思う。
 小さい頃は、よく布団に入ってから眠るまでの間に、真っ暗で何も見えず、長く布団の中にいるせいでその感覚もあやふやになってきたところで、もし次の瞬間に自分というたった今ここにあるだけのぼくが失われるとしたら、それはどんなことだろうかと考えた。その思考は眠気が強まるにつれ、眠りによって意識が失われることがぼくの知りたいこととイコールのような気がしてきて、ならばその瞬間を感じられたなら、それが答えなんじゃないかと思い、早く眠れ!眠れ!と自信に念じたときもあった。睡眠のメカニズムを知った今では、そんなことはできないこともわかるし、仮にできたとしてもそれでは答えに至れないということもわかっている。しかしその頃のぼくは本気で、人間が夜に眠るということは、ほとんど死ぬことと同義のように思っていた。だから、毎夜死んだ人間が毎朝自然と生き返るということが不思議でたまらなかった。だから眠る前にはそのようなことを考え、眠る瞬間を捉えようとしたのだと思う。
 このときのぼくが確かめたかったものは、永井氏が求めた<ぼく>というものとほぼ同義だろう。それを踏まえた上でぼくの行為がどんな意味があったのかを考えてみる。
 ぼくの行った実験の肝は、真っ暗で感覚もほとんどないということである。人間の身体感覚というか、イメージとして、ほとんどの人は日常生活においては<ぼく>というものが自分の身体に重ね合わせられて捉えていると思う。それは視界に入る自分の手や足、耳にする自分の声や肌同士で感じる触覚などに依って成立していると考えられる。ならばそれを取っ払えば剥き身の<ぼく>というものが捉えられるのではないか。つまり、寝る前という状況を選んだのは、そのときこそ<ぼく>というものに焦点が合わせやすく、そこに限りなく近づくことができると子供ながらに感じていたからではないだろうか。
 しかし、この実験では決して<ぼく>というものを捉えることはなかった。それは何故か。子供のぼくが剥き身の<ぼく>だと思って見つめていたものは、<ぼく>ではなかったのだろうか。ここで重要なのは、ぼくの<ぼく>を捉えるときのイメージが"見つめる"というものだったことである。五感を廃した実験環境の中で、ぼくはなお視覚という感覚イメージを用いて<ぼく>を"見よう"としていたのである。実際、目を閉じた中でもぼくの意識の焦点は瞼の裏を見つめる視界に合っていた。"見る"という行為は物事を対象化する第一歩であると思う。だから、ぼくのやり方で捉えられたのは<ぼく>自身を相対化したものであり、それは相対化されている故に<ぼく>からは変質してしまった<ぼく>である。これはいわば、ぼくの内部において知覚される自己意識である。ぼくが捉えたかったのはこの相対化という行為を行う主体である<ぼく>だった。しかし、ここまでくればそれが不可能なのは明白である。ぼくがやっているのはいわば一人だけの鬼ごっこのようなもので、鬼でありまた逃げる人でもある自分はどうやっても捕まえられないし、捕まらない。<ぼく>というものが相対化できない時点で、それを捉えることは不可能である。故に<ぼく>は<ぼく>を知覚することはできない。このことは、永井氏の問題に対するぼくの考えを補足するものでもあると思う。



蛇足。
 この前日にゼーガペインのMADがニコニコに結構あったので色々見て回ったのだが、そういえば、ウェットダメージを負い、それを修復する過程で精神が変質してしまった場合(例:第一話冒頭以前のキョウとそれ以降のキョウ)、それによって<ぼく>という特別性はその人間の中で失われるのだろうか。それとも変わらず在り続けるのだろうか。これは言い換えれば<ぼく>という特別性はデータとして記述されうるかという問題にもなると思うが、はたしてどうなるのか。そういうことを考えながら、もう一度見直してみるのも面白いかもしれないと思う今日この頃。



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