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何気なくニコニコ動画を見ていた昨日。ふとランキングに衝撃的な文字が。
『なのは映画化』 その瞬間、ついにやっちまったかという悲しみとまたまだなのは終わっていない!という喜びの板挟みに即座に陥った自分に、ああ俺って本当になのはが好きなんだなあ、と少々センチメンタルになってみたり。 とりあえずメガミマガジンの情報を確認するところから始めたいと思います。 8月初めに動画のネタ元であるメガミマガジンを購入して記事を詳しく読んで見たのですが、更なる絶望が募っただけでした。 都築氏の「今の整った製作体制でもう一度作り直したい」という気持ちもわかりますし、この盛り上がったなのは人気を更に商業活動として消化していくにはなんらかの展開が必要なのもわかりますが、その答えとして既に形を持ってしまったものを今また別の形で示すというのは違う気がします。 これはFateのPS2版の追加エピソードをプレイしたときも感じたのですが、既に多くのフォロアーによって同人などで作品の補足・補強がなされている状況下で、なお原作サイドがそこに明確な答えを示す必要はあるのか。もっと主観的になるなら、俺が行間を読んで懸命に自分の中で育んだイメージを、原作者だからといって蛇足のようなもので勝手に否定する権利がどこにあるんだ、と言いたい。 しかし、現状の業界の雰囲気からして、売れるなら売れるだけ続編は作り続けられますし(もちろんそこには多分にスポンサーによる圧力により作りたくもない続編を強いられているところもあるでしょうが)、そうやって出てきた新しいエピソードを、ユーザーは貪欲に求め、吟味無く鵜呑みにしているように感じます。 物語とは本来、そこから自分自身で汲み出すものこそに意味があるのだと僕は信じています。もちろん僕の考えは万人が一概に頷けるものではないでしょう。しかし、いくら資本主義を基盤とした商業至上主義が市場に蔓延しているからといって、それにユーザーまでが冒され、物語を消費するだけの者になっては、ますます業界全体が売上げだけを基準とした作品作りをしていくことになってしまいます。それは本当に作りたいものが作れなくなってしまう製作サイドにとっても、いつかは類似系の商品しか提供されなくなってしまうユーザーサイドにとっても悲しいです。 だから、僕らは例え聞いてくれる人がいない、見てくれる人がいないと感じても、それを意味が無いことだと決めつけることなく、こんなネットの片隅にあっても、自分は多くの作品の単なる消費者ではなく、いなくてはならない批評家であり、作品に絶対必要な一人のファンであるということを心して、常に能動的な姿勢で作品に向き合うべきだと、僕は思うのです。 まあ、そんなふうに生きてると、ときにアニメ版「まほろまてぃっく」のラストがどうしても納得できなくて、必死に作品読解するために原作漫画買ったりしてアニメ製作サイドの意図とか思惑とかを探して、「で、結局なにが言いたいんだ!?」と頭を抱えることになったりするんですけどね(苦笑) ちなみにまほろまってぃく考は補助作品として「この醜くも美しい世界」を踏まえたりして今もって思案中です。自分の中での論点であり争点はおそらくラストでの優の孤独性という問題のすり替え(のように見える演出)と、あの時間の開きなんだと思うのですが…。まあこの話は長くなるので残りの原作漫画が揃ってからということで。 PR
無題
あれってマジだったの?
MADネタだと思ってたww
無題
MADだったら「またこのにわかファンめが」って笑い飛ばして終了だったんですがねー。
まあほんとにただの焼き直しにならないことを切に願う限りです。 |
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