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肉屋の仕事、ときどき趣味の日々
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 大塚英志氏と東浩紀氏の対談集『リアルのゆくえ』を読み始めたんですが、こういう自分に関わりの深い人たちの話に限ってぐるぐると頭の中で考え込んでしまう傾向にあり、案の定今回もいろいろ思うところが出てきたわけですが、あんんまりにも長くなってしまったので、以下の文章は興味のある方のみご覧ください。

 まず読み始めて最初に感じたのは、あまりにも記号的に使われる専門用語の嵐に対する辟易でした。文学研究会で、特定の単語に含意を持たせるときには必ず使用する箇所ごとにそこでの意味を一致させるように徹底されてきた身としては、なんでもかんでもポストモダン的とかマルクス主義的とかいう広義的な単語で説明されるとまったくもってちんぷんかんぷんなわけです。もちろん僕がポストモダンやマルクス主義がなんであるのかを具体的にイメージできるような知識も持たない若造だからというのも理解できない理由としてあるでしょうが、それとは別に広義的なものであるが故にその文脈の読み間違え、個人の勝手な解釈の介入という危険を孕んでいると思うのです。もっと、「ポストモダンのこういう側面がこういう風に影響して~」といった(非常に手抜きな例ですが)論点を絞り込むような言論がこういった批評などの場においては特に重要だろう、と僕は経験的に思うんですが、なにぶん対談形式ということもあり、その辺は端折られる運命だったのでしょう。でも書籍としてまとめる際に、注釈なり端書きなりで対応しても良かったのではないかと不満に感じたのも事実です。



 さて、やっと内容についての話になりますが、第一章ではサブカルチャーにおける消費の移り変わりから、そこに潜む問題性をさらに膨らめて社会とかの問題にまで言及していくんですが、上記にも書いたように、含意があるにも関わらず記号的に使われる単語と、参考文献として挙げられるものがほぼ未読という状態では、恥ずかしながら抽象的な話のエッセンスくらいしか拾うことができませんでした。そんな理解したというには乏しい状況でやることではないかもしれませんが、以下では第一章で話されていた内容を僕なりに噛み砕いて、僕というフィルターを通して考えたことを書いてみようと思います。
 文中で東さんがマーケットによって「自分」のモデルが提供され始めたことで個人の「主体」は必ずしも必要なものではなくなってしまったと言ったことに対して、大塚さんがそれでも自分たち旧世代のおたくはどこかで「主体」というものを信じていると述べています。僕個人としては、以前からこのブログ上で何度か<ぼく>とか自己とかいうものについていろいろ書いていますが、立場としては大塚さんに近いです。現状は、東さんの言うように「主体」というものが必要不可欠ではなくなったが故にそれを探すことを放棄している人が大多数を占めるのでしょう(参考:extra_blog"1対1対多数の世界" )が、そんな中でマイノリティたる僕は提供される「ぼく」の紋切り型のモデルに未だ満足できなくて、他の何者でもない<ぼく>という主体を探し続けているんでしょう(参考:extra_blog"なぜぼくは存在するのか(永井均「<こども>のための哲学」に関する考察1) " )。もちろんこれは大塚さんのように歴史的に照らし合わせた結果の意見ではなく、酷く個人的な経験に基づくものです。それでも稚拙な僕の歴史的知識を総動員して現在はどういう変遷の上にどのように成り立っているのかを考えるならば、おおよそ以下のようになると思います。
 日本の戦後史は敗戦から始まります。敗戦後はGHQにより日本は再建されることになり、日本は急速な経済成長を遂げます。この間の日本は常に敗戦という挫折と戦っていました。挫折がもたらしたのは占領に始まる主体性の妨害です。この経験が"挫折=主体性に対する脅威"という関係式を成立させ、異常なまでに挫折を嫌悪する風潮が生まれたんだと思います。また、一方では国家政策として国民全体の所得の底上げが図られ、教育による素養の底上げが図られ、その他様々な手段によって国民が出来る限り挫折を経験せずにすむ社会体制を構築していきました。まあ、この政策については欧米的な"機会均等"に基づくものだったのかもしれませんが、その辺りは定かではありません。ですが結果として、挫折を経験する人間やその機会が大幅に減少したのは確かです。その徹底した底上げの挙句に行き着いたのがバブルだったわけですが、その先に待っていたバブル崩壊という挫折は、実際多くの企業を倒産に追い込み、数多の国民の生活を脅かしましたが、それでも国家という組織が行った救済政策によって完全な経済破綻は起きませんでした。この事実は人々の心に最早挫折はかつての脅威性を失ったのだと印象付けたのだと思います。もちろんこれは一例でしかありません。他にも受験を考えれば、公立と私立はわざわざ受験日、結果発表日をずらして滑り止めが利くようになっていますし、大学受験なんかはチャンスだけはその気になればいくらでも作り出せます。このようにして、最低限の目標ラインをクリアできる予防策を幾重にも張ることで滅多なことでは挫折を経験させない(というかあまり強く意識させない)ようなシステムが構築されているのです。
 さて、先にも述べたようにこれらの保護策が上手く働きすぎた結果、人々の中で本来的な挫折に出会うことがほとんど皆無となり、挫折というものが主体性を脅かすこともなくなってしまいました。不思議なもので、ここまでくると過保護なまでに守られてきた主体性というものはその実在性に疑問が浮かんでしまうのです。これはほとんど妨害の無い環境に浸された自己がその抵抗の低さ故に輪郭を失ってしまい、いわば自分という濃度が薄まっているような感覚に陥ってしまいます。これは僕の実感に基づくところも大きいので言葉で説明するのは難しいんですが、ある程度の選択肢と行動結果が保証された制度下において、何かを選択するという僕の行動は果たして主体的といえるのかどうかという、なんというか、敷かれたレールの上を走る列車にただ乗り継いでいるだけで、自分の足でちゃんと地面を踏みしめて歩いている感じがしないのです。だから何かに挑戦するとしても、それは予期しない挫折と隣り合わせではなく、ある程度予想される幾通りの結果の一つに行き着くだけの酷く味気ない行為に思えてしまうのです。
 そのような制度は、しかし一方で社会を円滑に進めるためには非常に都合の良いものであり、現在に至ってはこれが世界規模で展開されつつあります。母体が巨大化したことで、守られるべきものは人間から国家単位に拡大され、その防衛機構は日々刻々と構築されてきています。無論、規模が変わってもそこに潜む問題性が消えることはありませんから、依然として主体性の弱体化の危険は残ります。むしろ構造が複雑化したことでそのことが見えにくくなってしまっているのかもしれません。それがどのような影響を生むのかは最早、保護・被保護の関係が明確ではないことなどからしてカオスの様相を呈しており、はっきりとした答えを得るのは難しいのかもしれませんが、これらの結果として発生した事態が先の世界金融危機だったのだと僕は思います。あれはいわば、様々なところで行われた挫折を回避するための予防策が作り出した皺寄せが、それを一挙に引き受ける明確な保護者が不在であるが故に限界を超えて決壊したものだと考えています。ニュースなどで日本のバブル崩壊と対比されて報道されることがありますが、僕としては辿った道筋が同じようなもんなので、そりゃ当然だろうと思うんですが。
 以上のような経過を辿った結果、個人や国家という被保護者は挫折への耐性を失ってしまったと思います。それは自身の人生を悲観したり諦観するようなほど酷い挫折でもないにも関わらず、引きこもってしまったり、自殺してしまったり、周りに理解不可能な事件を起こしてしまったりといった形で現れています。いずれもよしんば挫折を知らないまま育ったために、ちょっとしたことで自分に対する確信が揺らぎ、弱体化した主体はそれを逃避(≒引きこもり、自殺)か過剰反応(≒異常事件)などでしか解消できないのです。この挫折経験の欠如は、保護者が挫折からの"予防"を徹底した代償として、挫折への"対処方法"を被保護者に学ばせる機会を奪った結果なのです。
 ならば、失われた挫折経験の機会を与えるのが漫画やアニメといったサブカルチャーの役目なのか。しかしそれは不可能に思えます。現在におけるキャラクター、特に中心人物となるものなどは現実とは反対に強大な主体性を与えられており("与え"られている時点でそれはもう主体性ではないのかもしれませんが、そこはご愛嬌)、作中で描かれるそれらキャラクターの挫折経験でさえその主体性をより強大にするギミックと化してしまっています。彼らは物語の構成上(ストーリーを進めるためだったり話の山場を作るためだったりで)常に強者であり、そのことをよく理解している読者もまたその挫折が単なるギミックであることを知っており、必ず立ち上がることを知る読者にとって、彼らの挫折をキャラクターが感じているほんの少しほどにも追体験することはできないのです。このことはこれまでの主体性の弱体化とはまた別に、自己意識の強大化という問題を生む要因となっていると僕は思っているんですが、まあそれは別の話。
 問題なのは、挫折というものがこれらサブカルチャーによってますます虚構化していくことです。「挫折なんて滅多にあり得ないし」→「挫折? 俺に限ってそれは絶対ねえwww」という思考が広まりつつあることです。これは変化形として「うちの子に限って~」などの定型句も導き出せます。つまり、これはおたくに限らず誰しもが抱えている問題だということです。主体性が失われるということは、単なる事実以上に危険な側面を持っていると僕は思います。



 最後に蛇足ですが、こういった状況を打破するヒントが福本伸行作品にはあると個人的には思うんですが、これ以上長く書き連ねてもなんなので、この辺で終わりとしておきます。



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